二祖日琇聖人(以下、二祖)は、明治44年(1911)2月7日、父・会祖と、母・八重子の下、千葉県茂原に誕生。
昭和7年(1932)10月6日、出家得度。僧名「現楠」(21歳)。
石神井支部時代
戦中から戦後にかけ、石神井支部において、弟子を交えて非行少年の指導に当たりました。
少年たちと共に農作業を通じ、心身の鍛錬、併せて農耕の厳しさ、収穫の喜びを教えたのです。
激しい肉体労働を伴う農作業は大きな負担となり、その上、僧侶としての法務など無理が重なり、昭和23年(1948)頃から病床に臥すようになりました。
9年間に及ぶ闘病生活の間、危篤に陥ること3度。
その度、ご法のご加護により、危機を脱したのです。
闘病生活にあっても、会祖の相談相手、さらに宗門の責任役員の重責を勤めていました。
二祖は後年、
「達磨は面壁九年で無を悟り、導師(わたし)は天井をにらんで、面天九年。生きねばならぬ、と有を悟った」
と述懐しましたが、9年間、誰もが経験できない修行をされたのでした。
二祖が書にし、口にもされた「能忍(のうにん)」は、永い闘病生活を含む、一生を通しての生き様を表した言葉です。
法燈継承
昭和32年(1957)7月28日、会祖遷化に伴い、二代会長に就任。「日琇(にっしゅう)」と改名(46歳)。
9年に及ぶ闘病生活を乗り越え、法燈継承するや、ご遷化までの17年間、大本山鷲山寺本堂再建事業をはじめ、横浜獅子吼教会の再建など、十指に余る事業に着手されたのです。
大本山鷲山寺貫首・法華宗管長就任。
鷲山寺本堂再建。
昭和32年(1957)9月1日、第91世貫首の会祖に続き、第92世貫首就任(46歳)。
昭和34年(1959)1月3日、第87代管長就任(48歳)。
父子2代続いての貫首就任は希なことであり、しかも46歳で貫首、48歳で管長就任は、異例の若さでした。
昭和36年(1961)、7年前に茂原市観光協会の打ち上げ花火により炎上した鷲山寺本堂を再建しました。
遷化
昭和49年(1974)6月14日、容態が急変し、駆けつけた信者に、
「17年、辛いこともあったが、楽しいこともあった。
人生、些かの悔いもありません。少し導師も長生きしすぎました。後を宜しく頼みます」
と淡々と告げたのです。
やがて、二祖の手が上下に動き出しました。
なんと、周りの者が唱える御題目に合わせて、木琴を打っているのです。正に眠るが如くの遷化でした(64歳)。
常に座右の銘とし、日頃、信者にも説いた「能忍」の二字は、長期の闘病生活と若い頃からの、筆舌に尽くし難い苦難を通じて得られた二祖の信念でした。